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#22 役者、教師を経て70年続く梨農家の3代目へ。先輩達への感謝を胸につなぐ故郷の農業

谷代果樹園
谷代克明さん

郡山の北西部に位置する郡山市熱海町。磐梯熱海温泉で広く知られ湯の町のイメージが強いエリアですが、実は国内有数の「梨どころ」でもあります。その栽培の歴史は明治以来100年以上とも言われ、毎年この地からたくさんの梨が県内、国内の各地へ、またベトナムなど海外へも届けられています。

ここ数年、熱海の梨農家の間では「ジョイント栽培」と呼ばれる新しい栽培方法が積極的に導入され、収量の向上を実現しています。木の幹を片側一方向へ伸ばし、その幹の先端部を隣接する幹へ接ぎ木することにより連結して、複数の木を直線状の集合樹に仕立てる技術です。

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ジョイント栽培の技術は2000年代半ばに神奈川県で生まれ、今では全国20県以上に広まっていると言いますが、福島で初めてジョイント栽培を取り入れ、この地に適した「郡山方式」ともいえる栽培方法を確立したのは、熱海町の谷代栄一さん。長くJAの梨生産部会長を務め、2010年にはその功績が認められ農林水産大臣賞を受賞するなど、半世紀以上にわたり熱海の梨の生産と発展に関わってきました。

今、その栄一さんのもとでは、三男の克明さんが次代を担う存在として梨とブドウの栽培に取り組んでいます。一度はまったく違う道へと進みながら30歳を過ぎて家業を継ぐ決意をした克明さん。そこには、故郷と故郷の農業、そしてその農業を守り続けてきた先人たちへの熱い想いがありました。

父は「継いでほしくない」と言っていた

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克明さんは、自らが家業を継ぐまでの歳月を振り返り、こう語り始めました。

「実は、父は”継いでほしくない”と言っていたんです。」

少年時代から役者と教師という2つの夢を抱いていた克明さん。高校卒業後は日本大学芸術学部へ進学し、演劇を学びながら国語の教員免許を取得します。卒業後は役者の道へと進み、その道一本で「食っていける」だけの実力を舞台の世界で発揮していました。

「父が若い頃はやりたいことがあろうがなかろうが長男は問答無用で家を継ぐ時代。でも父は、本当はサラリーマンにでもなって一旗揚げてやりたいと思っていたようです。だから息子たちには”自由にやれ”と言いたかったんでしょうし、実際、本当にやりたいようにやらせてもらっていました。」

役者として4年を過ごし、少しずつその先の人生を考え始めた頃、克明さんはいわき総合高校の「芸術表現系列(演劇)」の講師の誘いを受けます。2007年、いわきへと移り、もう一つの夢であった教師としての道を歩み始めました。

しかし、好きな演技に携わりながら安定した生活を送っていた2011年、東日本大震災が発生します。激しい揺れ、津波、そして原発事故。このままいわきで教師を続けられるのか。家業は大丈夫なのか。自らの行く末に大きな不安を感じました。

「福島の果物は毒の実になってしまったね。」

知人からは、不安に追い打ちをかけるようにそんな言葉もかけられました。

ここを継げるのは息子だけ。

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うちの梨はもう二度と食べられないかもしれない。そんな失意を抱きながら実家へ帰ったある日、克明さんは栄一さんの姿に心を揺り動かされます。

「その日、父親が梨部会のメンバーを集めて会議をしていたんです。もう梨の木を切ったほうがいいんじゃないか。じゃあこれから俺たちはどうすればいいんだ。そんな意見が飛び交う会議でした。

ところが、そんな中で父はきっぱり「俺は作る」と言ったんです。びっくりしました。先が見えない状況のなか、この地で自分の仕事をやり遂げる確固たる意思をブレずに持っていた。父親ながらその逞しさに驚いたことが、私が農業の道へと進む大きなきっかけになりました。

役者も学校の先生も、私なんかより優秀な人は沢山います。でも、ここを継ぎたいと思って実現できるのは息子しかいない。そう思ったんです。」

せめて震災の時点で受け持っていた生徒たちはしっかり自分の手で送り出してあげたいと、その後2年は高校での仕事を非常勤で続けつつ、その合間に福島市の果樹研究所で学び、さらに須賀川市内の梨農家でも修行を重ね、2014年、70年以上続く梨農家の3代目として、いよいよ家業へと本格的に歩みを進めました。

モチベーションを高めた「正しいケンカ」

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長年の経験を持ち地域の生産者から信頼を集める父と、役者や教師を経て外の世界で農業を学んできた新米の息子。両者の関係は想像に違わず、はじめはなかなか相容れるものではなかったようです。

「親なので、当たり前のようにぶつかりました。“お前のせいで今年の出来は悪いんだ”と言われたり、私も“そのやり方は古い。最新のやり方はこうだ。なんでこうしないんだ”みたいなことを言ってみたり。今でもそれはあまり変わりませんね。

でもそれって<正しいケンカ>だと思うし、実はそれができるのがうれしいことでもあるんです。お互い目指すのはただ一つ、品質の良い果実を作り届けること。その中で互いに自由に意見を言い合うことで、父は親として意地を見せてやろうと思うでしょうし、私も親父をうならせてやろうと思う。それが品質の良さやお客さんの喜びにつながるわけですから。口うるさくて面倒臭いと思うこともありますが、正しいケンカがなければ磨かれないこともあると思うので、感謝しています。

恥ずかしくてこんなこと直接は言えないですけどね(笑)。」

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栄一さんをはじめ地元の先輩生産者たちからの叱咤しったが大きなモチベーションとなり、ここまで来ることができたという克明さん。今考えるのは、自分を磨いてくれたその先輩達をどう守っていくかだと言います。

「この地域でも若手の生産者は圧倒的に少なく、ほとんどが70代や80代のじいちゃん、ばあちゃん達です。これまで日本の食卓を支え、今なお第一線で働いてくれているそうした人達を、これからどう守っていくべきか。地域の財産である彼らにどう恩返しをするのか。そんなことを最近はよく考えます。もし私が父のように何かの賞をもらうことがあるとしたら、その賞状を人数分に分けてみなさんに配りたいぐらいなんです。」

「今までで一番いい」と言えるものを毎年作りたい

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8月の「幸水」に始まり、「豊水」「あきづき」「甘太」、冬を超えゴールデンウィーク頃まで出荷が続く「秋峰」と5品種の梨を栽培する克明さん。その他にブドウを4品種(あづましずく、ピオーネ、クイーンニーナ、シャインマスカット)とコメを手がけ、忙しい毎日を送っています。先輩達の時代から自らが先陣を切る時代へ移り変わろうとする今、克明さんが思い描くのはこんな未来です。

「“これを食べるために福島に、郡山に行きたい”と思ってもらえるようなものを作りたいですね。そうすれば、来てくださった人たちは旅館に泊まり、買い物をし、ごはん屋さんに行く。経済が動きます。私が農家として故郷のためにできることはそれだろうと思っています。そのためにも、満足することなく、もっともっといいものを作りたい。毎年毎年“今までの中で一番良かった”と言えるものを作りたいんです。」

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最近は、農作業が集中する時期に生産者の栽培管理作業を手伝う「アグリサポーター」の研修も受け入れている克明さん。いかにわかりやすく言葉を伝えるか。舞台や教壇で積み重ねた経験が光る瞬間です。「役者になったのも学校の先生になったのも、すべては農家をやるためだったのかもしれませんね」と笑います。

「農家って厳しいし、覚悟がなければできない仕事です。でも逆に言えば、覚悟を持ってやれる仕事って、そうはないですよね。夢中になって向き合って、死ぬまで何者かでいられる。それってすごい仕事だと思うんです。

私も父や先輩達のように、震災があろうが何があろうが常に前を向いて、ずるをしないで一生懸命に、必死になって働きたい。そうでなければ、農業をやる価値などないと思っています。」

農業を通して地域の人々の日々の生活を守り、未来へつなぐ。ぶつかり合いつつも尊敬する父・栄一さんから譲り受けた、克明さんにしか継ぐことのできないそのスピリットを胸に、克明さんは今日も果樹園に立ち続けます。

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谷代果樹園
福島県郡山市熱海町安子島字北吉野34-15
Instagram @fruitsfarmyashiro
※直売所あり(10:00~17:00/月曜定休、月曜祝日の際は火曜定休)

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取材日 2020.8.27
Photo by 佐久間正人(佐久間正人写真事務所
Interview / Text by 髙橋晃浩マデニヤル
著作 郡山市(担当:園芸畜産振興課)