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#12 震災を超え変わった意識。鶏が喜ぶ環境の中で最高の「郡山ブランド鶏」を作るのが今の夢

有限会社けるぷ農場
代表取締役社長 佐藤喜一さん

健康志向や食の安全性への関心が高まる中、スーパーや農産物直売所の卵売り場で「平飼い卵」の文字を目にすることが多くなりました。

「平飼い」とは、鶏をケージに閉じ込めるのではなく鶏舎の中や養鶏場の敷地内に放し、自由に運動させながら卵を産ませる飼い方のこと。欧米ではすでにケージ飼いを禁止している国があったり、海外資本の大手飲食チェーンでは使用する卵すべてを平飼いの卵に切り替えるなど、世界レベルでケージ飼いから平飼いへの転換が進んでいますが、日本で流通する卵における平飼いの割合は、まだ全体の数%にとどまっています。

郡山市田村町の山あいにある「けるぷ農場」は、今のように平飼い卵が注目されるずっと以前からその飼育法に取り組んできました。二代目にあたる佐藤喜一さんがお父様の故・三郎さんと共に農場をスタートさせたのは1994年のこと。途中、震災により養鶏を中断しましたが、2018年に再スタートを切りました。

養鶏以外にも、農薬も肥料も使わず作物そのものの力を最大限に引き出した野菜作りに挑むなど、自然の摂理に従った農業を展開する喜一さん。その独自の取り組みについてお話しをうかがいました。

自然と調和した生き方を鶏たちと共有したい

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卵は私たちの毎日の食卓に「あって当然」の食材。スーパーに入荷されない日はありません。しかし、動物が産み落とすものである以上、本来卵を産む周期はある程度決まっているはず。私たちはそうしたことを忘れ、ニワトリは1年中卵を産む動物だと錯覚してしまっています。

そんな中、喜一さんは、単にケージから出して飼育するだけではなく、ニワトリが本来持っている生殖サイクルにまで目を向けた平飼いに取り組んでいます。

「自然のままだと、初春から初夏にかけてが、鶏が最も卵を産む時期なんです。そこから夏、秋と子育てをします。冬は子育てができないのでだんだん卵を産まなくなり、秋から冬にかけて一度羽が抜ける<換羽かんわ時期>を経て体がリセットされ、また翌春に卵を産むようになる。これが自然のサイクルです。

僕は、鶏たちにも自然と調和した生き方をしてほしい。そんな想いで鶏と向き合っています。僕らの体が喜んで、なおかつ鶏たちが幸せになるのはどんな環境かということを考えながら、鶏さんと向き合い続けているんです。」

けるぷ農場のヒナは7ヶ月から8ヶ月の間、自由な環境の中で育ち、11月から12月にかけて出荷されます。喜一さんによれば、通常のブロイラーは産まれてから出荷まで40~50日程度。地鶏や銘柄鶏でも80~90日ぐらいで出荷するのが普通だとか。それに比べると、7~8ヶ月という飼育期間は桁違いの長さです。

それだけの日数が必要な理由は、自然に生える草をふんだんに食べて跳びはね遊ぶ環境をつくり、農場で育てる自然栽培の麦やあわを中心に旬の野菜や購入する米など、本来ニワトリが喜んで食べる餌だけを与えているから。出荷に充分な大きさに育つまでの時間は長くなりますが、本来の成長曲線をたどった健康な鶏を食べることが人の健康にもいい影響を与えるのだと喜一さんは語ります。

震災前は納得できないまま育てていた

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それでも震災以前は、「頭ではわかっていても今のような飼い方はできなかった」と喜一さんは振り返ります。

「震災前はピーク時で2万4,000羽、一坪あたり3羽~8羽の鶏を飼っていました。そのすべてを土の上で飼い、少しでも健康にしようと思ってやっていたんですけど、いま思い出してみると納得できない方法で飼育していた部分もあったように感じます。

それでもやらざるを得なかったのは、生活や採算の問題もありますし、“鶏は高く売れないもの”という先入観が邪魔をして、お客さんに少しでも安く提供しなければいけないと思い込んでいたからかもしれないですね。

当時は一羽3,000円ぐらいで流通させてもらっていました。鶏としてはそれでも高いほうなんですが、お魚や牛肉に比べればだいぶ安いですし、それらと同じ値段では買ってもらえるはずがないと考えていた部分もありました。」

「俺は本当に鶏が喜ぶことをやっていなかった」

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そうした先入観を払しょくし、養鶏に対する考え方を変えるきっかけとなったのが、東日本大震災でした。

「震災の一ヶ月後にはもう養鶏をやめる決断をしていました。ベクレルとかシーベルトとか、そんなもの聞いたこともないし、何もかもまったくわからない。誰に言われても“もう絶対に鶏はやらない”と、あの頃は言い続けていましたね。

でも、鶏をやめたことで時間ができ、国内外で自分と同じような考えを持った仲間のところを訪ね、みなさんと接する中で、自分で勝手に限界線を引いて“ここまでしかできない”と思い込んでいたことに気づきました。俺は本当に鶏が喜ぶことをやってなかったんだって。

お金のためとか人のためではなく、鶏たちのために自分ができることをちゃんとやる。そのことに気持ちをシフトさせれば、鶏も僕らも楽になるということに気づいたんです。今なら楽しく幸せな鶏と向き合うことができる。そう考えが変わって、2018年に鶏を再開しました。」

現在、けるぷ農場にいる鶏は約200羽。数を減らしたぶん手間も充分にかけているため、一羽1万5,000円程度の市場価格になっていると言います。「そんなに高級なものを」と言われることもあるそうですが、喜一さんには揺るがない信念があります。

「鶏たちが本当に喜ぶ環境で正しいものを作り続ける。今は高いと思われるかもしれません。でも、最終的には認められる時が来るだろうと信じているんです。」

ワンステップフェスティバルを生んだ父のDNA

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人一倍強い探求心や、常識に迎合しない信念。喜一さんの言葉から感じ取ることができるそうした個性は、25年前に共に農場を開いたお父様から受け継いだDNAの賜物に違いありません。

喜一さんの父、佐藤三郎さんは、1974年に開成山陸上競技場で開催された、日本における野外ロックフェスの先駆けの一つ「ワンステップフェスティバル」を企画したことで知られます。60歳を過ぎてから自身でも音楽を始め、「おにぎり」という歌を通して食の大切さを広く伝える活動もしました。

音楽と農業。表面上はまったく関連のない2つのように感じられますが、お父様についてお話をうかがうと、その2つは発想の根底で強く結びついていることがわかりました。

「親父は“ロックのロの字も知らなかった”と言ってましたね。でも、緑が減ってきたり、環境問題が深刻になっていく中で危機感を持ち、<街に緑を、若者に広場を、そして大きな夢を>というテーマを掲げた。じゃあ何をやろうと考えた時に、そのパッションというか若者のエネルギーを形にするには音楽が一番だと考えたんでしょう。

つまり、その頃から父にとっては緑がテーマだったんです。ワンステップの期間もずっと街でゴミ拾いをやったり、阿武隈川沿いに桜を植樹したりしました。きっと親父にとっては、イベントを作るのも農業をやるのも全部一緒だったんです。60歳を超えてから自分で歌い始めたのもそう。緑や自然というテーマの中で一つにつながっていたんだと思います。」

「儲けも大事ですが、まずは鶏。それでいいのかと言われますけど(笑)」

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「僕も父と同じで、農業をやることも農業以外の勉強会やイベントに顔を出すのもすべてつながっていて、他のことをやっているというイメージはありません。農場自体がライフワークだと思っているので、儲けはもちろん大事でしょうけど、もっと大切な自然と共存する調和することを一番に思い農業をしている。商売をしている感覚はまったくなくて、それでいいのかってよく言われますけど(笑)、そこも父と似ているところだと思います。

とは言うものの、震災後は相当減益になってしまって、まだまだ大変ですけど、それでも鶏を商売道具としては見れないんですよね。だからといって一羽一羽に名前を付けてかわいがるというようなつもりはもちろんないんですけど、まずは鶏たちが自然に自由に喜んでいる環境を作ることを考えています。

そうした環境がいかに大切かという認識を世界に広める、そのきっかけにこの農場がなったらうれしいですね。そんな未来を目指しつつ、いずれは郡山のブランド鶏を作れたらいいなと思って、今まさにそのブリーディングにも取り組んでいるところです。」

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有限会社けるぷ農場
【閉園済】

取材日 2019.9.18
Photo by 鰐渕隼理(佐久間正人写真事務所
Interview / Text by 髙橋晃浩Madenial Inc.
著作 郡山市(担当:園芸畜産振興課)